あれ、いい匂い。

日曜の午後。自宅に帰ってきた僕はドアノブに触れようとした手をふと止めた。
ふわふわ漂ってくるやさしい香り。不思議と胸が高鳴る。


「あら?お帰り、リーマス。」

僕の愛しの妻は、湯気立つポット片手にキッチンから顔をのぞかせていた。
お気に入りの淡いグリーンのワンピースを着て、くすくすと可笑しそうに笑う。

「丁度、お茶が出来たころに帰ってくるんだから、」
「僕、鼻が良いんだ。」

呆れたように笑って、は紅茶の入ったカップを僕に渡した。
「今日は何?」
「アップルパイ焼いたの」
「アップルパイか。久しぶりだ」
そう言って額に口づけすると、彼女は頬を赤らめてはにかむ。
「座ってて、リーマス。いま持って行くから」


彼女がオーブンを開けると、幸せいっぱいなリンゴの香りが、狭いリビングに広がった。
ちいさな丸テーブルを独り占めするようにのっかって、午後の光をきらきらとはねかえす。
両の手からミトンを外して、も向かいに腰掛けた。

「さあ、乾杯しましょ」
「乾杯?紅茶で?」
「うん、いいからいいから。ほら…せーの、」

かんぱーい、
と僕らは熱々の紅茶が入ったカップをこつんと合わせた。



「ねえ…。覚えてる?ほかに何時、アップルパイを食べたか」
「そりゃあ、僕が君にプロポーズした日だ。忘れもしないよ」
「ええ、そうね」
そう言ってクスリと笑う。
「それから何度かアップルパイは登場した。」
「うん、思い出せる?」
僕は背もたれに体を沈めて、記憶をめぐらせた。

「そうだな…クリスマス後夜祭?」
「ふふ、そんな日あったかしら」
「あ、ここへ来て初めて雪が降った日…」
「そうそう、その日は何の日だった?」
「ああ、そうだ。僕の論文が大当たりした日」
「うん、正解よ。ほかにはどうかしら…?」
「ほかには…」


目の前のアップルパイを眺めてみる。
…どうしてだろう。この香りがなんとなく、楽しくて幸せな思い出を彷彿とさせる。
プロポーズ、論文…
「新居完成の日…」
独り言のようにつぶやくと、はにっこり微笑んだ。「上出来ね」


そのままナイフで切り分け始めたを見つめる。
しばらく黙っていたあと、僕はまてよと身を乗り出した。

「そういう今日は、なにかいいことがあるんだ」
「あら、よかったわ、気がついてくれて」
小皿によそったそれを僕の前にそっと置く。
それからはちょっと意地悪っぽく、「どう、当ててみる?」と笑った。


僕はあごに手を置き、なにかヒントがないものかとリビングを見回した。
暖炉、ソファ…キッチンの小物…全部変わりない。窓から見える庭の様子も、なにひとつ。
いままでと一緒に見える。
「いや、だめだ…」
「そうね、少し難しかったわ…」
手を引っ込めると、は恥ずかしそうに目を伏せた。


「今日、あなたが出かけている間、病院へ行って来たの」
「病院…?どうして…具合が悪かった?もしかして、怪我?」
「ううん、リーマス。安心して、そうじゃなくて…私たち、家族が増えたのよ」
「え…か、ぞく?」

僕は驚いて、じっとのことを見つめた。
いま、は何て言った?家族が…ふえた…

ゆっくり、の目から視線を落として行った。グリーンのワンピース。お気に入りの…
それから彼女のお腹へ辿った時、僕はハッとした。
「あ…ねえ、…もしかして、」

もう一度見上げたは、最高の笑みを浮かべて、首を傾げていた。

「おめでとう、リーマス。大正解よ」


手を伸ばして彼女の頬を包むと、そのまま身を乗り出してテーブルの向こうからキスをした。
真下から立ち昇るりんごの香りが、からだいっぱいに幸せを散らす。

忘れられない思い出が、またひとつ。
ああやっぱり。こんな日にはアップルパイだ。



(2011.6.1)
ルーピン家にジュニア誕生。


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